儚き幸福論


上手い具合に誰も悲しまないハッピーエンドなんか見ると、
誰しもなんとなく苛々しませんか。
逆にとても気分がいい人もいるかもしれないけど、
それって現実に在り得ないからじゃないですか。
前者でも多分、同じ理由で。


喜劇よりも悲劇に惹かれてしまう。
登場人物が痛々しく死んでいくだけで、
なんとなく良い物語のように錯覚してしまう。
↑ちょっとこれは大袈裟ですが…
それって多分、日常がどちらかといえば悲しいことに溢れていて、
そうでなくとも悲しいことのほうがインパクトが大きくて、
ほんの少しネガティブになっただけで楽しい記憶が思い出せなくて、
だから嘘でも「共感」しただなんて思うからじゃあないでしょーか。


ハッピーエンドは現実には存在しない。
何故って、幸福ってやつが手の届かないから。
「手の届く幸福」は手にした瞬間「当たり前」に降格してしまって、
だから思い浮かべる幸福って常に遠くに逃げてしまう。
掴まえられないものを追い掛けることでしか人は成長できなくて、
今手にしているものの価値はつい忘れがちだったりして、
だから「自分は不幸だ」なんてペシミストぶって自己愛に耽る。


生きてることそのものが幸せだって言う人もいるけれど、
それってホントかな?
どんなに辛くて痛くて悲しくても、
生きてるだけで幸せなんだろうか。
生まれてしまった僕らには、わからないことだけれど。
生まれることのなかった誰かは、
僕らにそのことを話してはくれないから。
死んでいった沢山の誰かも、
やっぱりその先を教えてはくれないから。
生きてる事が一番の地獄かもしれなくて、
もしかしたらやっぱり楽園なのかもしれなくて、
でもわからないから立ち止まっては幸福の幻想を求めたり。


エデンから地上へ突き落とされる夢を見た。
心底、ぞっとした。
あれが死ぬ感覚なんだろうか。それとも生まれ落ちる感覚?
呼吸をして、有機物を摂り、排泄し、目覚めては眠って、
無限の柵に馬鹿みたいに従いながら、
それでも生きていく意味を探す。
それが存在するかどうかは二の次で、
やっぱり捜し求めることに意義がある(らしい)。
悲しき迷える子羊達。
人のつくった神さまに縋って、
その願いが叶わなければ汚く詰って踏みつける。
なんて我儘で強欲なんだって天上人は呆れていることでしょう。
(そういうものの存在を、僕は信じないけれど、
でも肯定することより否定することの方が難しいそうだ。)


喜劇より悲劇に惹かれてしまうんだ。
けれど出来るならば喜劇の中で生きていたいはずで。
見えない大きな手の中で踊らされて、
それでも幸せってやつの形くらい知りたいじゃないか。
いつか誰かが、
僕らが死んで僕らの子供が、孫が死んで、
大地も星も滅びた後で生まれ落ちる誰かが、
僕らの代わりにそいつを捕まえる日が来るかもしれない。
泡になった人魚姫とは違う、
僕らには2本の足がある。
進まなくては見えないものがきっとあって、
だからみんな歩かずにはいられないんだ。
今は悲しいことばかりで、
でも悲劇を掻き集めたらいつか、
喜劇しか残らなくなるかもしれない。
パンドラの箱みたいに。



(まとまんなかった…死)
(なんか前向きっぽくて反吐が出る文章だな…)
(僕は所詮、悲観論者ですからわかんねーですけど)