生きるということ


こちらのニュースをご存知でしょうか。
講読しているとあるメールマガジンで取り上げられていて知ったのですが、
要約すると直木賞作家がエッセイ中で
「飼っている猫の産んだ仔を崖から投げ捨てて殺していた」
というような内容を書いたとかで
読んだ人たちから大ブーイング、というニュースです。
僕も詳細は把握していないのでなんとも…もし語弊があったら申し訳無い。


僕は動物が大好きで小さい頃から色々飼ってきました。
マンション住まいで犬猫は残念ながら駄目なのですが、
現在もウーパールーパーやら文鳥やらが家にいます。
命に接するというのはとても大きなことで、
この作家が「日本は死というものが隠蔽されている」というようなことを言ましたが、
それは確かに正しいと思います。
生きているということはいずれ死ぬということ。
死を理解しなければ生を理解出来ない。
だからと言って子猫を殺すことには賛成できませんが、
まぁ初めから親猫を手術して産ませなければいいのですから…と
頭の方で書いたメルマガの発行者様に言ってみたところ、
「でも手術だって動物の命を勝手に弄ることで、
ペットを飼うっていうのはやっぱり命を玩具にする贅沢な遊びかな、」
とまた考えさせられるご意見を頂きました。


命を玩具にする。
ならば動物を愛玩するということは罪だろうか。
人間は知能が高いという理由で他の生命に横暴すぎるのかもしれません。
自然を犠牲にするばかりの知能なんて、「高い」とすら呼べないのかも。
けれど僕はやっぱり動物が好きだし、
触れ合うことでお互いに癒される(と、科学的にも証明されています)。
そして大事なのは、彼らもいずれ死ぬということだと思います。
どんなに可愛がったって大切に育てたって、
彼らは僕らより先に死んでいく。
過ごした時間が長いほど、或いはその愛の深いほど、
喪失感だって大きい。
だからこそ命がどんなに大切で、脆く、美しいものかわかるんじゃないでしょうか。
ゲームや漫画で安易に死を扱うから子供がその重大性を理解出来ないだなんて、
そんなのは大人の詭弁だ。
本物に触れさせなければ偽物に騙されたって仕方が無い。
教える事もせずに、他の影響だけを責めるなんて。
なんだか下らない法律まで立てようとしている国家ですが、
僕はもっと大事なことがあるんじゃないかと思っています。


…偉そうなことを言っていますが僕も最近、大きく死生観が変わりました。
死に触れたことで、です。
何のために頭がついているのか、
もっと生きることを考える機会ならいくらでもあったのではないか。
経験するまで何一つ理解出来ないのは馬鹿だと思います。
欠片でもいい、考えることで得ることもあるはずで、
だからこそ二度と間違いたくないと思います。
「死を隠蔽された」世界で、
無理矢理に死に触れろだなんて言いません。
だからこそ、死がどういうものか考えるべきだと思うんです。
答なんか無い。際限なんて無い。いくらでも考えていく。
生きていることってそういうことでもあると思うから。