明日を想い


 人の一生は後悔の積み重ねで形作られる。あの時ああしていたら、もしこうなっていたら、もっと素晴らしい今があったのではないか。例え満ち足りた結果を得たとしても、それより大きな成功が在り得たかもしれない。それは逆に、失敗ばかりの毎日ですら凌駕するほど酷い現実も在り得るとも言い換えられるけれど。
 後悔故に人は成長する。次はきっと、そう願うから。遥かな高みを夢見て、届かない手の平を空へと伸ばす。自分よりも目指す場所に近く立つ人があれば羨み、自分を追う人があれば先を急ぐだろう。或いは共に歩もうと立ち止まるかもしれない。そして何を選択しても、もう一方を選択していたら…と想像しては後悔するのだ。次はきっと。また繰り返す。
 「今まで生きてきた中で一番の後悔は、この世に生をうけたことそれ自体に他ならない。」
 ある人が、そんなことを呟いた。辛い、悲しい、憎い。いっそ死んでしまえたらどんなに楽だろうか、と。答えられる人は誰もいないだろう。死人は二度と話さない。楽になったのか、それとも生き続けたかったと悔いるのか。答えを知る機会は万人に等しく与えられていて、それは同時に終わりを意味する。知っても語ることは出来ず、後悔を生かす明日も無い。どうせならしぶとく生き長らえた方が得かもしれないし、答えによっては極力短く済んだ方が良いのかもしれない。かもしれない、仮定の議論は実を結ばないにも関らず尽きないのは何故だろう?


 自分の傲慢さ、醜さに吐き気を催した。他人に情を押し付ける行為が誰を救うと言うのだろう。すべては「後悔したくない」、ただそのためだけの行為が。自分は無力だ。泣きたいほどに理解しているのに繰り返す。助けたいと偽善を振り翳し、自己満足に嫌悪し、後悔を重ねては結局誰かを傷つけることしか出来ない。自分の後悔など忘れてしまえたらいいのに。ひとり肩を抱いて泣いているあの人を、これ以上追い詰めさせたくないだけなのに。ああ、無力だ。こうして悲嘆に酔う自分が恨めしい。自分の為、人の為、どれもきっと嘘で。


 人の一生は後悔の積み重ねで形作られる。登っては転げ落ち、また登っては踏み外し。それでも明日は一歩前に立っていたい。明日が無理ならば、明後日。一週間後、一ヵ月後、一年後。生まれ落ちたその日より、眠りにつくその日が幸福であるように。今は差し伸べた手が届かなくても、いつかは抱き締めて温められるように。悲しんでいるあの人の隣にそっと寄り添うように生きてゆくため、後悔の今日を愛してゆく。忘れてしまいたい記憶すら大切に書き留め、望む未来を慈しむように描き、そして後悔を重ねてゆく。
 狂おしいほどこの世界が好きだから。後悔しか出来ない不器用で美しい生きものが、愛しくて愛しくて仕方ないから。だから、僕は。